野球で培ったもの~神出設計野球部編~episode2
2月に行われた第29回昭和新山国際雪合戦大会で2年ぶり3度目の優勝を飾った「でぃくさんズ神出」。このチームは社会人軟式野球の雄・神出設計エコアハウス野球部の皆さんが選手として出場。野球についても昨秋行われた、第36回全日本早起き野球全国大会で準優勝するなど全国屈指の強豪チームだ。メンバーの中には、元プロ野球選手や大学、高校で活躍した選手ばかりだ。そんな野球部の方々に『野球で培ったもの』は、と聞いてみた。
今回インタビューしたのは、伊藤秀則(ひでのり)さん(36)。
野球を始めたキッカケは、野球好きの父の影響が大きかったそうだ。小学4年で雨竜ドラゴンズへ入団。中学は雨竜中野球部。中3最後のシーズンは、中体連で北空知地区予選、全空知支部を勝ち上がり全道大会進出。全道大会・1回戦では小樽市立北山中に涙した。高校は滝川西高校へ進学。高校三年最後の夏は北空知支部予選を勝ち上がり、北北海道予選大会へ進出。決勝まで駒を進め帯広南商業高校を6‐2で下し、甲子園出場を果たした。甲子園1回戦では名門・智弁学園に2‐6で敗れ、伊藤秀則さんの学生野球の幕は下りた。
~高校野球の思い出~
北北海道予選、2度の決勝を経験
高校1年の春からベンチ入りを果たし、同年夏から背番号5を掴んだ伊藤さんの高校野球の思い出は「全道大会・北北海道予選大会2度の経験」と話す。それは高校2年の夏、北空知支部予選を勝ち上がり、北北海道予選大会決勝進出を果たす。1回戦・音更高を11‐2。2回戦・旭川実高を5‐1。準決勝・帯広南商高を10‐4で下し、決勝は旭川大高との対戦。八回終わって3‐2と1点リードで迎えた九回裏の旭川大高の攻撃で、味方失策などで2点を奪われまさかの逆転サヨナラ負け。目の前まで掴みかけた甲子園があっという間に遠く離れていく瞬間だった。この悔しさを忘れなかった伊藤さん他滝川西高ナインは翌年の夏、北北海道予選大会へ見事出場し、1回戦・帯広柏葉高を5‐1。2回戦・釧路江南高との打撃戦を制し11‐10と競り勝った。準決勝では遠軽高を6‐3で破り決勝進出。決勝の相手は昨夏、準決勝で対戦した帯広南商高を6‐2で破り、悲願の甲子園出場を果たした。夏の甲子園大会では第80回記念大会として、またエース・松坂大輔を擁した横浜高校が春夏連覇を懸けた大会と話題になった。あとに“松坂世代”と言う言葉も生まれた世代だ。試合は1回戦で智弁学園(奈良県)と対戦するも2‐6で涙した。この高校野球で経験した粘り強い精神力が現在の仕事でも生きているという。
現在、入社して今年で19年目を迎える。振り返ると就職活動中、高校の先輩からの紹介で面接を受け内定をいただき入社に至った。「野球をやっていなければ今の職場との縁も無かったと思う」と言う。会社では工事部係長として現場監督も任される。仕事でのやりがいは「引き渡しの時、お客様より感謝の言葉をいただいた時」と充実した表情を見せた。仕事に野球、雪合戦の選手としても現役の伊藤さん。年間17~18棟を手掛ける伊藤さんは「これからも一人ひとりのお客様を大事に、このご縁を大切にしていきたい」と言葉も熱かった。
▼伊藤秀則さん
1980年生まれ。雨竜町出身。身長167㎝、体重69㎏。右投・左打。家族は妻と娘(5)。
(選手経歴)
雨竜ドラゴンズ-雨竜中学校-滝川西高校-神出設計野球部
▽松坂世代
松坂大輔が横浜高等学校のエースとしてかながわ・ゆめ国体や阪神甲子園球場で開催された第70回選抜高等学校野球大会・第80回全国高等学校野球選手権大会で活躍した1998年は松坂の他にも優れた高校球児を多く輩出したことで知られ、高校野球のみならず大学野球・社会人野球を経由の者も含め、多くの選手がプロ入りし、活躍した。特に甲子園に出場した選手や、東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟と言った有名なリーグで下級生時からエースとして活躍する選手が非常に多かったこと、さらに他のスポーツ競技者や芸能界にも人材を輩出したことから、1980年4月2日 – 1981年4月1日生まれに対し、マスコミが特に活躍が顕著だった松坂の名を冠し「松坂世代」と呼ぶようになった。
従来日本のプロ野球界に於いて、その生まれ年の数字を使った「昭和○○年組」というものが一般的であり、選手達自らが組織を作る場合にも同様に生まれ年を使った「昭和○○年会」という名称を使用しており、松坂世代も「昭和55年会」を組織している。一選手の名前が使われ、「○○世代」と呼ばれるのは(例:1967年度生まれの選手をあらわす「桑田清原世代」、1988年度生まれの選手をあらわす「ハンカチ世代」など)この「松坂世代」にはじまったことである。(Wikipediaより)
協力:㈱ecoaハウス