雪の中、強く逞しく日本一を目指す!<東16丁目フリッパーズ>
雪中極寒の-5度で元気に白球を追いかける球児がいた!
2月19日(日)東区少年軟式野球連盟の総会で、自ら連盟から脱退した東16丁目フリッパーズを取材した。昨年まで当チームの活躍を考えると“なぜ”となる!それもそのはず昨年では全国スポーツ少年団軟式野球交流大会の開催地枠出場・全道少年軟式野球大会では全道3位。2009年には全日本学童マクドナルドトーナメント大会でベスト8進出など近年北海道を代表するチームと発展。
しかし強いチームであればあるほど勝ち上がり、少年野球であればあたり前の土日に集中。試合は一日3試合あるいはそれ以上と選手に与える負担は極めて大きい。当然どちらかを優先しなければいけないわけだが、東16丁目フリッパーズは迷わず二大全国大会予選を優先。試合数を考えて数年前から連盟からの脱退を考えていた。「夢である全国制覇を目指し!全日本学童大会と全国スポーツ少年団軟式野球交流大会の2大会が大きな目標!強かろうが弱かろうが選手・親・指導者ともに夢を見よう!そこに日本一があるなら目指さないのはおかしい」と笹谷武志氏(33才)が熱く語ってくれた。実に判り易い回答だった。
日本一を本気で目指す、雪中練習!
北海道の冬場の練習と言えば室内での練習が今じゃ常識。しかし元村公園ではあえて非常識を打ち立てている。正に日本一を目指すんであればこれぐらいあたり前と言わんばかりに、選手達も親御さんも今じゃ馴れた様子だ!お父さん方には率先して除雪をする方もいる、誠に感謝だ。2004年・2005年全国制覇をした駒大苫小牧元監督香田氏・元大昭和製紙監督我喜屋氏(現興南高校野球部監督・校長・理事長)両名共に道外出身であるが、そこにもよもやの雪中ノックがあったことを思い出す。我々がもっている固定概念が時として邪魔をしていることもあるのかもしれない。「北海道は雪があるからと言い訳したくない、本州のチームと同様の練習をする」と笹谷監督の本気が伝わった。
★動画:冬練・東16丁目フリッパーズ編
[東16丁目フリッパーズ:選手構成]
6年生=6名
5年生=10名
4年生=3名
3年生=2名
2年生=2名
[現在出場を検討している大会]
全日本学童マクドナルドトーナメント大会-予選
全国スポーツ少年団軟式野球交流大会-予選(札幌市スポーツ少年団春季大会予選 )
札幌市スポーツ少年団秋季大会
日刊スポーツ旗春季・秋季
ジャビットカップ
ファイターズジュニア王座決定戦-予選
ポップアスリート北海道予選
12月から心強い新スタッフが加わった!
▼西田佑真(23歳)
(東16丁目フリッパーズ-札幌新琴似シニア-駒大苫小牧高校-苫小牧駒澤大学出身)
昨年12月からコーチとして加わり、できる限り練習に参加し選手と一緒に汗を流している。自身でもまだプレイヤーとしてやりたい気もあるが、「前々から指導者もやってみたかった」と言うだけあって現在は幸せな生活を送っているとのこと。
●少年野球時代の思い出は、読売こども野球大会で優勝できた事と最優秀選手賞と打撃賞をいただいたこと。
●中学時代の思い出は札幌新琴似シニアで全国中学硬式野球のジャイアンツカップで準優勝したこと 。
●高校時代の思い出は夏の甲子園で全国準優勝したこと。
★今後はクラブチームとなり地域・学年問わず選手募集だそうだ
[お問い合わせ先]
監督:笹谷武志(090-9431-7999)
◆香田誉士史氏
1995年駒澤大学附属苫小牧高等学校の社会科教員兼野球部顧問として就任。その後監督となり、2001年夏(83回大会)に32年ぶりの甲子園出場を果たす。この時と2003年春(75回大会)と夏(85回大会)は初戦敗退するが、2004年の夏(86回大会)を制覇し、北海道に初の優勝旗をもたらした。
翌2005年の春(77回大会)は2回戦で敗退したが、夏(87回大会)は、1948年(30回大会)の小倉高校(旧制小倉中学)以来57年ぶり史上6度目の夏連覇の快挙を達成した。さらに同年、国民体育大会「晴れの国おかやま国体」、明治神宮野球大会も優勝。
しかし、翌2006年3月に部員の喫煙・飲酒による不祥事が発覚し、春(78回大会)への出場を辞退。自らも責任を取り監督を辞任した。
2006年5月監督に復帰すると、同年夏の88回大会では、ふたたび決勝進出。延長再試合の激闘の末、惜しくも3連覇を逃すが、準優勝。同年秋、部員の喫煙による不祥事が新たに発覚。野球部は1週間活動を自粛し、自らも1週間謹慎。
2007年の夏(89回大会)も優勝候補に挙げられたが初戦敗退(準優勝の広陵高校相手に9回二死までリードするが失策等で逆転負け)。その後監督辞任。
◆我喜屋優氏
1968年の第50回全国高等学校野球選手権大会では当時復帰前の沖縄代表として出場した興南高校の4番・主将として出場。これまで春夏合わせて甲子園ではわずか1勝しかできなかった沖縄勢を初のベスト4に押し上げた「興南旋風」と呼ばれる活躍を見せるも、準決勝でこの大会に優勝した興國高校に0-14と大敗する。
高校卒業後、静岡県富士市の大昭和製紙に入部し、入社4年目に北海道白老町の大昭和製紙北海道へ移籍。1974年の第45回都市対抗野球大会では北海道勢初の優勝に貢献した。現役引退後は大昭和北海道および後身のクラブチーム・ヴィガしらおいの監督も歴任。2004年白老町在住時は駒大苫小牧の外部コーチに就任し2004年・2005年の選手権連覇を陰で支えた。
2007年より母校の興南高校野球部監督に就任。2010年には春のセンバツと、夏の選手権の両大会で優勝に導いた。夏の優勝により、史上6校目の「春夏制覇」を達成し、同時に「沖縄県勢初の夏の甲子園優勝」を達成した。
なお、2010年7月より興南中学・高校を運営する「学校法人興南学園」の理事長に就任。2011年4月より興南中学・高校の校長も兼任。
協力:東16丁目フリッパーズ