被災地・厚真町から通う中学球児を取材
<がんばる被災地の中学球児>
北海道胆振東部震災の被害が大きかった震源地・厚真町から通う中学球児3人を取材した。
厚真町は夕張山地から太平洋へと南流する厚真川の流域をほぼそのまま町域としており、南北に長いのが特徴。
今回の最大震度7を記録した大地震では山間部での被害が大きく吉野地区の集落は約1キロにわたる土砂崩れで埋まり、厚真町では36人が亡くなった。
厚真町は南北に長く今回取材した3人の中で、一番被害が大きかったのは豊沢地区に住む井鳥隼太君(中1・厚真ファイターズ出身)に当時を聞いた。
野球があの恐怖を忘れさせてくれた
地震当時、暗闇の中逃げる際ドアに額をぶつけ今も生々しく傷が残る井鳥君。
電気、水道も止まり、避難所くらしは10月7日まで続き自宅に帰れたのは地震発生から32日後の8日月曜日のことだ。
井鳥君が住む厚真町豊沢地区は、別荘などが立ち並ぶ丘の上となっており山間部に近かったため被害が大きく、土砂崩れの影響で道路の寸断で一時陸の孤島となった。
「避難所くらしではダンボールベットが堅かったのと人がすぐそばで寝ているのが気になって最初は寝れなかった」と当時を語ってくれた。
「飲み水は丸々1ケ月出なかった。子供たちは野球の友達といる時が、一番の笑顔を見せていた」と父・秀司さん(46)。
余震は、震度1~4程度のものがほぼ毎日あり、あの時の恐怖をまた呼び戻すと言う。
~奥井、伊勢家にも聞いた~
厚真町豊川地区に住む・奥井啓太君(中2・上厚真ベアーズ出身)は「まだ余震とかが怖いが遠征とか仲間と野球をしているときは地震を忘れることができた」と笑顔。
母・麻里子さん(45)は「生活用水が一週間、飲み水は10日と水が出なかったことが一番不便だった」と被害を語ってくれた。
厚真町共和地区に住む・伊勢脩永君(中1・上厚真ベアーズ出身)は「電気の無い中、不安だったが野球をやっているときは地震の怖さを忘れることができた」と当時を振り返る。
母・奈津子さん(38)は「野球の子供たちといるのが一番気がまぎらうようです」と話す。
<インタビューに答えてくれた3人>
▼井鳥隼太(いとり しゅんた)
厚真中1 厚真ファイターズ出身 右投げ・両打ち
161センチ、53キロ ポジション:ファースト・サード
持ち味:右打者での犠牲バンド
▼奥井啓太(おくい けいた)
厚南中2 上厚真ベアーズ出身 右投げ・右打ち
164センチ、51キロ ポジション:センター
持ち味:ミート力
▼伊勢脩永(いせ しゅうと)
厚南中1 上厚真ベアーズ出身 左投げ・左打ち
161センチ、55キロ ポジション:ライト
持ち味:パワー
地震当日の丹羽監督が凄い!
今回の取材で分かったことだが丹羽 肇監督(51)が地震発生当日の行動が凄い!
当日、ラジオを聞いていたところ震源地が厚真町と知りいてもたってもいられずチームバスに乗って現地に向かったと言う。
「倒壊した家を眺めても気が滅入るはず、避難所もごった返しているはず」と現地に向かった。
道中、伊勢さんと車ですれ違い無事を確認した。
その足で豊川地区に向かったところ途中、道路が土砂で寸断され約1キロほど歩いたところで井鳥さんに会うことができた。
隼太君は額から血を流していたが無事を確認できた。
奥井さんは医療関係にお勤めの為、地震直後から病院に勤務していたため安否確認が遅れたが全員の無事を確認できた。
<最も被害が大きかった厚真町吉野地区>
3人を取材した後、現地に向かった。
苫小牧市苫東地区の柏原球場から車で15分ほどで厚真町に入り、さらに15分ほど走ると今回の地震で最も被害が大きかったとされる吉野地区に着いた。
吉野地区に入ると土砂崩れで道路を寸断していた跡が未だに残っていた。山裾に建てられた住居が押しつぶされている様子は、予想をはるか超える自然の驚異を感じた。
今なお土砂崩れの影響で道路が寸断される吉野地区。
本当に言葉を失う
まだまだ復興には時間がかかりそうだ。